ケンタッキーダービー歴史

アメリカにおいてケンタッキーダービーほど歴史と人気があるスポーツイベントはありません。ミントジュレップを飲みながら、華やかな帽子をかぶり、競馬ファンと一緒に「マイ・オールド・ケンタッキー・ホーム」を歌うという伝統は、ケンタッキーダービーを単なるスポーツイベントという域を超えて、南部カルチャーのお祝い、そして、アメリカ文化の象徴として発展してきました。1875年に始まったケンタッキーダービーは、アメリカにおいて最も歴史のあるスポーツイベントです。優勝馬にはバラのレイが掛けられることから、「ラン・フォー・ザ・ローゼス」とも呼ばれ、「スポーツの中で最も偉大な2分間」として歴史を刻み、世界大恐慌、及び二度の世界大戦時も中断されませんでした。

ケンタッキーダービーは、1872年、ウィリアム・クラークの孫であるメリウェザー・ルイス・クラークがヨーロッパに旅をしたことから始まりました。クラークはイギリスのエプソムダービーを観戦し、ロンシャン競馬場にてパリ大賞典を開催する仏ジョッキークラブとも交流しました。感銘を受けクラークは、帰国後、アメリカで大きな競馬イベントを開催することを決心しました。彼は、叔父のジョンとヘンリー・チャーチルの協力を得ながら競馬場に必要な土地を取得、また、地元の競馬ファンを集めルイビルジョッキークラブを設立し、クラークとジョッキークラブによってケンタッキー州ルイビルに競馬場の建築に必要な基金を集めました。そして1875年5月17日、ついに競馬場はオープンし、初めてのケンタッキーダービーが開催されました。およそ10,000人の観衆の声援を受けながら15頭の3歳馬が2,400mの距離でレースを行い、Aristidesが記念すべき第1回目の優勝馬となりました。

他のビッグイベントと同じように、ケンタッキーダービーは三世紀にわたり様々な変化がありました。距離の短縮や、優勝馬にバラのレイが掛けるようになったこと、競馬場への入場人員が増えたこと等、メリウェザー・ルイス・クラークによって始められたこのケンタッキーダービーの素晴らしさを尊重しながら、時代の変化に合わせていきました。下記の年表をご覧いただくと、歴史的名馬のパフォーマンス、様々な記録や大きな変更など、どのようにケンタッキーダービーが発展してきたかをご確認いただけるでしょう。

1874年

メリウェザー・ルイス・クラーク大佐がルイビルジョッキークラブを発足し、叔父のジョンとヘンリー・チャーチルから競馬場用の土地を取得。

1875年

第1回ケンタッキーダービーが5月17日に開催。10,000人の観衆の前で15頭よって2,400mの距離で争われ、Aristidesが記念すべき第1回目の勝馬となった。

1883年

競馬場名がチャーチルダウンズとなり、Leonatusがダービーを勝利。

1889年

ブックメーカーは、パリミュチュエル方式の投票がブックメーカーの利益に打撃を与えているとしてクラーク大佐に同方式の投票機器の撤去を要求。Spokaneが勝利。

1894年

入場人員が増えたことに伴い、スタンドを約87m増設。Chantが勝利。

1895年

5月6日、あの有名なツインスパイアがお目見え。Halmaが勝利。

1896年

3歳馬の春に2,400mの距離は長すぎるとして距離を2,000mに変更。Ben Brushが勝利し、白とピンクのバラのアレンジメントが贈呈される。

1899年

4月22日、ケンタッキーダービーの創設者メリウェザー・ルイス・クラーク大佐が自殺。第25回ケンタッキーダービーの12日前のことだった。Manuelが勝利。

1903年

マット・J・ウィン大佐の指揮により、競馬場は初めて利益を生み出した。Judge Himesが勝利。

1904年

赤いバラがケンタッキーダービーの公式の生花となる。Elwoodが勝利。

1908年

パリミュチュエル方式が再導入され、ブックメーカーが非合法化。ダービー当日の発売金67,570ドルうち18,300ドルがダービー単独の発売金であった。

1911年

最低購入金額が5ドルから2ドルへと変更となり、有人投票窓口が設置された。2名のスタッフが窓口に立ち、一人は発売要員として、もう一人は発券枚数をカウントした。Meridianがダービー優勝。

1913年

ダービーへの出走登録料と賞金の見直しを行った。予備登録料が25ドル、出走登録料を100ドルとし、チャーチルダウンズからの賞金5,000ドルを併せると、優勝馬は5,475ドル獲得できることとなった。Donerailが勝利、これは大穴のレースとしてのレコードで、2ドルあたりの払戻金は単勝184.90ドル、2着払複勝41.20ドル、3着払複勝13.20ドルだった。

1914年

Old Rosebudがレコードタイムとなる2:03:04で8馬身差の勝利。

1915年

Regretが牝馬として初めて優勝。このニュースは、ケンタッキーダービーを第41回目にしてアメリカのトップスポーツイベントの座に押し上げた。

1919年

Sir Bartonが勝利。その後わずか計32日間で、プリークネスステークス、ウィザーズステークス、そしてベルモントステークスを勝利し初めての三冠馬となった。

1922年

MorVichが優勝し、賞金だけでなく、金のカップと蝋燭立てのセットが授与された。副賞は7,000ドルの価値で、初めて賞金以外の賞品が授与されることとなった。

1924年

Black Goldが第50回のケンタッキーダービーを勝利し、現在と同様のトロフィーが授与された。

1925年

5月16日に行われFlying Ebonyが優勝したこの年のケンタッキーダービーは、初めてラジオ中継され500~600万人が視聴。また、「ラン・フォー・ザ・ローゼス」という言葉が、スポーツコラムニストのビル・コラムによって初めて表現された。

1930年

Gallant Foxが勝利。その後プリークネスステークスとベルモントステークスを勝利した際、ニューヨークタイムスによって3冠競走という表現が正式に使われた。

1931年

ケンタッキーダービーはこれまでの5月中旬から毎年5月の第1土曜日に開催されることになった。これは、3冠馬というアイデアが注目されるようになり、全てのレースに出走できるよう配慮したことが主な理由である。

1932年

世界大恐慌が起こったが、ケンタッキーダービーは開催された。レースはイギリスの放送局など海外でも中継され、Burgoo Kingが勝利。初めて赤いバラのレイが掛けられた。

1938年

スタンドと馬場内がつながるトンネルが開通し、馬場内の入場料は50セント。Lawrinが勝利。

1943年

第二次世界大戦時の旅行制限により、ケンタッキーダービーの入場券は地元以外で発売されなかったが65,000人が来場した。Count Fleetが1.4倍のオッズで優勝。

1949年

初めて地元向けにテレビ中継を開始。Ponderが勝利。

1952年

初めて全米でテレビ中継され、1,000~1,500万人が視聴。Hill Galeが勝利。

1954年

総賞金が100,000ドルとなる。Determineが勝ち馬に。

1966年

Millionaires Rowというダイニングルームがオープン。Kauai Kingが勝利。

1968年

Dancer’s Imageが初めての失格馬となる。レース後、禁止薬物の陽性が判明し賞金は没収され、二位入線のForward Passが繰り上がり優勝となった。

1970年

ダイアン・クランプ騎手が女性として初めてケンタッキーダービーに騎乗。18頭中15着だったが女性騎手が競馬で注目を浴びるようになる。Dust Commanderが勝利。

1973年

第99回ケンタッキーダービーは、Secretariatがレコードタイム1:59:40で優勝し、25年ぶりに三冠馬となった。このタイムは現在も破られていない。

1974年

全米史上第2位の入場人員となる163,628人が第100回のケンタッキーダービーに詰め掛けた。出走頭数は23頭とレコード。Cannonadeが勝利。

1977年

Seattle Slewがケンタッキーダービー優勝。10頭目の三冠馬となった。無敗の三冠馬はSeattle Slewのみ。

1978年

Affirmedが勝利し、三冠馬となる。

1984年

全米24の競馬場でケンタッキーダービーの馬券が発売され、発売金は18,941,933ドルと北米のレコードとなった。Swaleが勝利。

1985年

ケンタッキーダービー博物館がオープン。ケンタッキーダービーの歴史や面白さを紹介。Spend A Buckが優勝。

1986年

ケンタッキーダービーの故郷、チャーチルダウンズ競馬場が国の歴史的建造物に認定される。Ferdinandが勝利。

1988年

Winning Colorsが史上3頭目の牝馬としてケンタッキーダービー馬となる。

1995年

総賞金が100万ドルにアップ。Thunder Gulchが勝利。

1996年

入場料が30ドルへと値上げ。1938年は50セントだった。勝馬はGrindstone。

1999年

第125回のダービーはCharismaticが勝利。この年初めてフューチャーウェイジャーが発売された。これは、ダービーが行われるより前に出走予定馬に対して投票できるものであり、的中時の払戻金が高くなることがあるのが特徴。

2000年

ダービーが初めて行われてから3世紀目。Fusaichi Pegasusが勝利。

2004年

Smarty Jonesが勝利しスポーツイラストレイテッド誌の表紙を飾った。

2006年

Barbaroが6.5馬身差で勝利。1946年以来の着差だった。同馬はプリークネスステークスの後、重大な故障を発症しこの世を去った。ファンの人気がとても高かったため、Barbaroの銅像は競馬場の入場口に飾られている。

2012年

I’ll Have Anotherが全米レコードとなる165,307人のファンの前で優勝。発売金1億3,310万ドルもレコードだった。

2015年

American Pharoahが優勝し三冠馬となる。American Pharoahが現在のところ最後の三冠馬である。

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